匠は語る

シリーズ1

加賀百万石の武家文化で育まれ、着物の中でも格調ある、手描き加賀友禅が仕上がるまでには、いくつもの工程(約10工程)があります。例えば、図案のスケッチに始まり下絵〜糊置き〜彩色〜中埋め〜地染〜水洗だけでも、それぞれに熟練した技術と経験を必要とします。このシリーズでは、友禅作家はもとより各工程に携わるベテランの職人さんからも手仕事へのこだわりや、加賀友禅の魅力を熱く語っていただきます。

柿本市郎/写真
石川県無形文化財 加賀友禅技術保存会
会員 加賀友禅作家
柿本市郎

●昭和12年

金沢市に生まれる。

●昭和30年

金丸充夫氏に師事。その間、木村雨山、能川光陽両氏に指導を受ける。

●昭和42年

加賀友禅作家として独立。

●昭和54年

第1回伝統加賀友禅工芸展にて銀賞。

●昭和56年

第7回加賀友禅新作競技会にて石川県知事賞。

●昭和61年

第8回伝統加賀友禅工芸展にて金賞。

●平成2年

(協)加賀染振興協会理事。

●平成4年

第14回伝統加賀友禅工芸展にて金賞。

●平成5年

第14回加賀友禅新作競技会にて中部通商産業局長賞。

●平成6年

石川県指定無形文化財「加賀友禅技術保存会会員」に認定。

制作中の柿本市郎/写真
制作中の柿本市郎/写真
彩色

金沢城の近く大手町に加賀友禅作家柿本市郎氏の自宅兼工房がある。数々の作品を描き続けてきた工房へお邪魔し、様々なお話しを聞かせていただいた。

◆木村雨山との出会い

加賀友禅の世界に入ったきっかけは、当時ものづくりの仕事に就きたくて石川県立工業高等学校図案部の恩師であった西村先生に友禅作家であった金丸充夫氏を紹介された。特別に友禅を志した訳ではなくその時に、金丸氏を紹介されなければ九谷焼の世界に行っていたかもしれないということであった。金丸氏は人間国宝木村雨山の弟子であり、金丸氏に入門すると同時に雨山先生の家へ挨拶に行くようにいわれた。玄関を入ってすぐの部屋で雨山先生は作業をしていた。中へ入るように促され先生のそばへいくと突然ものさしで足を叩かれた。入り際に着物をまたいだ事を窘められたのだった。「これからこの道に入っていくのにその様な気持ちではいかん。着物にあやまれ!」と強い口調で叱られたとのことである。ただその後に「痛かったか」と何度も聞いてきて心配してくれた。そんな姿から仕事に対する真摯な姿勢を学んだという。その後しばらくは毎日のように雨山先生のもとへ通ったが、ただすることは使い走りや雪すかしばかりであったという。好きで入った道ならば、苦しいのは当たり前。他人より努力するのも当たり前のことであるとよくいい聞かされていたという。雨山先生のもとには工芸の垣根を越え、漆芸の大場松魚氏をはじめとした名立たる名工が意見を聞きに訪れていた。いま思えばその様な偉大な方に直接教えをいただいたことは大きな財産であり、雨山先生・金丸先生・能川先生からは数え切れないほど多くのものを学んだという。

◆自分の色とは経験の積み重ね

「四十はまだ赤子、五十を過ぎると自分の色ができる。それまでは盗め。」能川先生がいつも言っていた言葉だという。ただ、自分の色は自分自身より周りの人々が感じることであり、大きな意識持っていないとのことである。「それらは経験の積み重ねにより出て来るもの、そう思っています。その為には自分に厳しく妥協しない姿勢が大事なのです。」と語った。展示会等で地方へ行ったときには、時間の許す限り足を伸ばし色々なものをスケッチするようにしているとのことである。こういったことの一つ一つが新しい作品を生み出す糧となっているのだろう。本物を見て、それに感動し描くことが大事なのであると…。

◆これからの加賀友禅

生活様式の変化による着物離れが云われているが、古着屋には若い人が殺到していると聞く。しかし、実際着物に興味があっても着ていく場所がないのも問題であると柿本氏は感じているとのこと。日本女性に似合う服装は、やはり着物であり、形も長い間にわたり変わらずにいる。「自分自身はこの着物というものに賭けており、これからも着物で勝負していきたい。いまこの業界もますます厳しく淘汰の時代が来ている。その中でも本流を貫き良いもの作りにこだわっていくことが、我々友禅作家に求められているような気がしてならないのです。」と加賀友禅の匠は最後に力強く語った。

休みの日、展覧会などへ行く以外は無意識に工房へ入り仕事をしているという。職人気質を感じさせられ、頭の下がる思いであった。[文 事務局]